第114回 ヨーロッパ音楽都市巡り バッハ巡礼その8 ライプツィヒ1

第114回 ヨーロッパ音楽都市巡り バッハ巡礼その8 ライプツィヒ1

2022年07月26日(火)11:30 AM

 ケーテンの君主レオポルト候の音楽熱が醒めてしまい、38歳のバッハは、ライプツィヒの音楽監督兼トーマスカントール(Thomaskantor)に就任し、1723年5月、最後の地ライプツィヒへ移住しました。1722年にトーマスカントール、ヨハン・クーナウ(1660-1722)の死去に伴い、後任者を巡って、当時ヨーロッパでヘンデルと並んで高名だったゲオルク・テレマン・フィリップ(1681-1767)らの名前が挙がりましたが、様々な理由で辞退が相次ぎ、有力候補ではなかったバッハに順番が廻ってきたのです。

 

トーマス教会前のバッハ像

 

 ライプツィヒでの仕事は大変な激務で、市内の4大教会(トーマス、ニコライ、マタイ、ペテロ)の祝祭日ために教会音楽の作曲を続け、トーマス教会少年合唱団の指導も大切な仕事でした。特に1723年から1729年までの6年間はバッハの創作活動の絶頂期にありました。まず膨大な量の教会カンタータを書き続け、さらにはヨハネ受難曲(1724年)、大傑作のマタイ受難曲(1727年)、さらにはマニフィカト(1723年)などの傑作もこの時期に書かれたのです。

 

ニコライ教会内のバッハ像

 

 古今東西、最高の教会音楽と言われるマタイ受難曲は、1827年に初演されたのち、完全に忘れられていましたが、メンデルスゾーン編でも触れたように、弱冠20歳のメンデルスゾーン(1809-1847)がライプツィヒのトーマス教会での歴史的な再演を果たし、バッハの名前は不滅のものになりました。

 

トーマス教会のバッハのステンドグラス

 

 バッハは、ザクセン選帝侯のお膝元ドレスデンとも関わり合い、1733年2月に亡くなったアウグスト1世の追悼のためにロ短調ミサ曲の「キリエ」を献呈、さらに選帝侯を継承したアウグスト2世の祝賀のために同じくロ短調ミサ曲の「グローリア」を献呈しました。そして1736年にザクセン宮廷の宮廷作曲家の称号を得ました。このロ短調ミサ曲は、最晩年の1748年から1749年にかけて残りの曲を書き上げ、バッハの集大成の作品となりました。

 

トーマス教会脇にあるメンデルスゾーンが建てたバッハ像

 

執筆:上月 光



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