第106回 ヨーロッパ音楽都市巡り 「ライプツィヒ」その13 シューマン2
シューマンは数多くのジャンルで傑作を残しましたが、特定のジャンルを集中的に作曲するという珍しい作曲家でした。1840年はクララとの結婚を巡って彼女の父親であるヴィークと法廷闘争中でしたが、クララとの愛によって幸せの絶頂にありました。

シューマンハウスのプレート ここの家に5年間住みました。
それまではピアノ曲しか作曲していなかったのに、突如として歌曲を書き始め、1840年の3月から7月にかけて、信じられないようなペースで「リーダークライス」「ミルテの花」「詩人の恋」「女の愛と生涯」など次々に傑作の歌曲集を書いたのです。この1840年は120曲もの歌曲を書いて、「歌曲の年」と呼ばれています。合唱曲として名高い「流浪の民」を書いたのもこの年です。本来はピアノ伴奏の4重唱曲だったのでした。
https://www.youtube.com/watch?v=BF-YV-hGLGM
「ミルテの花」から第1曲“献呈” 私の大好きなバリトン歌手ヘルマン・プライです。
https://www.youtube.com/watch?v=-DI_9YLcyXc
同じくプライの「詩人の恋」
https://www.youtube.com/watch?v=ss4PiUNUmO4
テルツァー少年合唱団のドイツ語による「流浪の民」
翌1841年は、管弦楽曲を書き始め、まずは交響曲第1番「春」を書き、次にピアノと管弦楽のための「幻想曲」を書きましたが、この曲は4年をかけて改訂を重ね、傑作「ピアノ協奏曲イ短調」の1楽章となりました。さらにニ短調の交響曲をクララの22歳の誕生日プレゼントとして書きますが、初演が思わしくなかったため、当時は出版されず、15年後の1856年に改訂後、「交響曲第4番」として、出版されるのです。この1841年は「交響曲の年」と呼ばれています。
https://www.youtube.com/watch?v=iRRwOoRA9Sw
藤岡幸夫指揮 関西フィル TV番組なので、シューマンの説明もあります。
余談になりますが、ウルトラセブンの最終回、ダンがアンヌにウルトラセブンであることを告白するシーンで「ピアノ協奏曲」の冒頭が非常に効果的に使われ、小学校1年生の私は衝撃を受けたことを憶えています。
https://www.youtube.com/watch?v=J01fJwYSAsE
これがウルトラセブンの涙の最終回です。
1842年は、対位法とフーガに取り組み、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を研究、さらにフランツ・リスト(1811-1886)に室内楽曲を勧められたこともあって、弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、次々に傑作を生みだし、「室内楽の年」と呼ばれています。

シューマンハウス正面玄関
さらに1843年は、大作のオラトリオ「楽園とペーリ」が大成功を収め、メンデルスゾーンが初代院長となったライプツィヒ音楽院でピアノと作曲の教授となるなど充実していました。しかし、そのころには精神疾患が始まっていて、1844年のロシア演奏旅行で非常に疲れたこともあって、心身が衰弱して、幻聴や耳鳴りに悩まされるようになりました。そして、音楽新報を人に譲り、ライプツィヒ音楽院の教授を辞職して、ドレスデンに移住するのです。1850年にはデュッセルドルフの音楽監督に就きますが、1854年に突然ライン川に飛び込んで自殺を図り、2年間の精神病院での入院ののち1856年に静かに息を引き取るのです。
執筆:上月 光
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