第105回 ヨーロッパ音楽都市巡り 「ライプツィヒ」その12 シューマン1
メンデルスゾーン編がすっかり長くなってしまいました。しかし、ライプツィヒといえば、もう1人、ドイツロマン派の大作曲家、ロベルト・シューマン(1810-1856)に触れないわけにはいきません。メンデルスゾーンよりも1歳年少ですが、46年の人生は波瀾万丈で苦難に満ちたものでした。
シューマンが生まれたのは、ザクセン州のツヴィッカウという街で、ライプツィヒの南70㎞にあり、ドレスデンまでも100㎞という位置にあります。父アウグスト(1773-1826)は、文筆家の傍ら、出版会社も立ち上げて、地元の名士として尊敬される存在で、ロベルトは不自由なく育ちました。また、ロベルトの母ヨハンナ(1767-1836)の血筋にも音楽家は誰もいませんでしたが、ロベルトは、7歳の頃からピアノに天賦の才能を発揮しました。

ライプツィヒにあるシューマンハウス
音楽家への道を応援していた父アウグストの逝去後、1728年にライプツィヒ大学法科に進学します、1830年から著名なピアニスト、音楽教師だったフリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)に師事するようになります。しかし、1832年に自身で発明したテクニックを磨く装置で右手の指を痛めてしまい、ピアニストの道を断念することになります。しかし、18歳で知り合った、9歳年下のヴィークの娘、クララ(1819-1896)と恋に落ち、父ヴィークの結婚への大反対を受けて裁判にまでなりますが、勝訴して生涯の伴侶となります。クララは、当時天才少女としてドイツ中に知られておりましたが、結婚後もメンデルスゾーン(1809-1847)、ショパン(1810-1849)、リスト(1811-1886)などと並び称されるような素晴らしいピアニストとなります。さらにクララは、1853年に初めてシューマン家を訪ねたヨハネス・ブラームス(1833-1897)とはロベルトの死後も生涯の付き合いとなり、ブラームスが生涯独身を貫いたのは、クララの存在があったからと言われています。

カフェ・バウム
さて、ロベルトに戻ります。シューマンは作曲家以外にも音楽評論家としても優秀で、論文や評論は、近代音楽評論の手本となりました。ライプツィヒにあるドイツ最古のカフェ・バウムは、1711年からコーヒーを出していますが、1830年ころからシューマンの他にも有名な音楽家、芸術家が集り、音楽談議に華を咲かせていました。

現在カフェバウムの上は、コーヒー博物館になっています
1831年ショパンの演奏を聞いたシューマンは、一般音楽新聞に「諸君!脱帽したまえ、天才だ」と投稿しました。1834年に創刊した新音楽時報では10年に渡って執筆を続けますが、著作権などなく、指の問題で演奏家でもなかったシューマンにとっては生活の糧となったのです。1844年以来、しばらく投稿していませんでしたが、前述のように1853年に20歳の若者だったらブラームスの音楽を聴き、「新しい道」という投稿の中で「そして、その人は突然に現れた」「この若者には何も足すべきところも、何も引くくべきところもない」と紹介したのです。ショパンもブラームスもシューマンによって世の中に紹介されたと言ってようでしょう。

カフェバウムの1階
長くなってしまったので、シューマンの作品は来週ご紹介しましょう。
執筆:上月 光