第100回 ヨーロッパ音楽都市巡り 「ライプツィヒ」その7 メンデルスゾーン巡礼2
いよいよ節目の100回となりました。ライプツィヒの第7回ですが、今回もメンデルスゾーン(1809-1847)の続きです。ところで、音楽界の2大神童といえば、モーツァルト(1756-1791)とメンデルスゾーンでしょうか。

トーマス教会の脇にメンデルスゾーンの建てたバッハ像
2人は幼くして驚くべき才能を発揮し、尋常ならざる記憶力を持っていて、夭逝してしまったこと、幼少期より父親と各地に旅行していろいろな音楽に触れたこと、才能溢れる姉ががいたこと、速筆だったこと等、いくつかの共通点はあります。しかし、晩年貧困に苦しんだモーツァルトに対し、メンデルスゾーンはユダヤ人であったこと、大富豪の家に生まれたこと等によって、かなり異なる人生を歩むことになります。また、メンデルスゾーンのよりも約50年前のモーツァルトの時代、音楽は王侯貴族の庇護のもとでないと難しかったことも大きかったと思います。また、メンデルスゾーンはバッハとモーツァルトの音楽を深く敬愛していました。

メンデルスゾーンハウス入口
さて1825年、16歳で音楽家への道を歩む決心をしたメンデルスゾーンですが、17歳の時に作曲した「真夏の世の夢」序曲は、メンデルスゾーンの代表作の1つで傑作です。この曲は、もともと姉のファニーとピアノの連弾を楽しむために作曲し、オーケストラ用に編曲しました。かの有名な「結婚行進曲」もこの中の1曲です。のちにこの曲の譜面を紛失してしまった際、記憶だけを頼りにほぼ完璧に書き直したという彼の天才性の逸話も有名です。
クルト・マズア指揮 ゲヴァントハウス管弦楽団
https://www.youtube.com/watch?v=wIcImOYivDA
J.S.バッハ(1685-1750)の傑作マタイ受難曲は、1727年にライプツィヒのトーマス教会で初演されましたが、バッハの死後この曲は完全に忘れられ、演奏されることはありませんでした。しかし、師匠のツェルター(1758-1832)同様、バッハに傾倒していたメンデルスゾーンは、1829年3月11日に自身の指揮によって、ベルリン・ジングアカデミーで復活上演を果たします。この世紀の演奏会がなければ、バッハはそのまま忘れられた存在になっていたかも知れません。

メンデルスゾーン像
マタイ受難曲の復活上演の直後、イギリス、スコットランドへ演奏旅行を行いますが、英国では王室を始め、熱狂的に受け入れられ、またイギリスを愛した彼は、生涯で10回に渡ってイギリスへ出かけます。また、スコットランドで得た霊感をもとに書かれた曲が、交響曲第3番「スコットランド」と「フィンガルの洞窟」という傑作です。
交響曲第3番「スコットランド」 ムーティ指揮 ウィーンフィル
https://www.youtube.com/watch?v=WY57WDH-nnc
「フィンガルの洞窟」 マーク指揮 ロンドン交響楽団
https://www.youtube.com/watch?v=mDRn4v96ydA
1933年3月、「マタイ受難曲」の復活上演を果たしたジングアカデミーでは、前年に亡くなったツェルターの後任として、指揮者に推されたましたが、ユダヤ人であることが原因で、選挙で落選してしまいます。ベルリンを去ったメンデルスゾーンは、イギリスから新曲を委嘱され、同年5月に交響曲第4番「イタリア」をロンドンで初演し、そのままデュッセルドルフのニーダーライン音楽祭に呼ばれ、同年10月にはデュッセルドルフの音楽監督に就任します。そして、デュッセルドルフでも歌曲「歌の翼に」などの傑作も書きましたが、劇場運営の方針を巡って支配人と上手くいかず、1935年にはライプツィヒへ行くことになるのです。
歌の翼に バーバラ・ボニー
https://www.youtube.com/watch?v=8NdUuPAAGxQ
執筆:上月 光
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