第99回 ヨーロッパ音楽都市巡り 「ライプツィヒ」その6 メンデルスゾーン巡礼1
ライプツィヒになってから、何度も名前が出てきましたが、ドイツロマン派の偉大な作曲家フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)の足跡を辿ってみましょう。彼は単に作曲家としてだけでなく、様々な改革や歴史的な事業を成し遂げますが、まずはその少年時代から。

ライプツィヒのメンデルスゾーンハウス
メンデルスゾーンが生まれたのは、1809年、ドイツ北部のハンザ同盟の自由都市ハンブルクです。しかし、ナポレオンのフランス軍の侵攻から逃れ、1811年にはベルリンに移住しました。
父親のアブラハムは大変豊かな銀行家で、クラシック音楽の作曲家の中でも類を見ないほどの大富豪でしたので、メンデルスゾーンは生涯に渡ってお金に不自由することはありませんでした。しかし、両親ともに当時から迫害を受けていたユダヤ人の家系だったため、父親は、1816年にプロテスタントに改宗、7歳のメンデルスゾーンも洗礼を受けました。そして、名字にバルトルディを付け加え、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディとなったのですが、本人はこの名前が嫌いで、生涯ユダヤ人であることも意識していました。お金に困ることはありませんでした、ユダヤ人であったことが、彼の人生に大きな影響を及ぼし、死後も暗い影を落とし続けますが、それは後述します。

メンデルスゾーンハウス中庭の彫刻
さて、メンデルスゾーン少年は、超一流の家庭教師たちからドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、英語、フランス語、文学、数学、水泳、乗馬、絵画、音楽等をすべてで才能を発揮しました。特に美術には画家になっても大成功したと思わせるほど非凡なものがありました。また、類稀なる記憶力を持っていました。

20歳の時に書いた水彩画イギリスの寺院
そして音楽です。上流階級の嗜みで始めた音楽ですが、驚くべき才能を発揮し、9歳でピアノのコンサートデビューを果たしました。8歳から師事したベルリン・ジングアカデミー監督で高名なカール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)が、才能に気づき、メンデルスゾーンが12歳の時にワイマールに一緒に旅行し、友人の文豪ゲーテ(1749-1832)に紹介し、ゲーテもその60歳年下の少年の才能に熱狂しました。
父親はメンデルスゾーンを跡取りにと考えていましたが、ツェルターやゲーテらに絶賛されたため、16歳の時にパリへ旅行し、パリ音楽院長だったルイジ・ケルビーニ(1760-1842)に意見を求め、太鼓判を押されて、ついに音楽家になることを許されました。
執筆:上月 光
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