第93回 ヨーロッパ音楽都市巡り 「ドレスデン」その6 リヒャルト・シュトラウス
さて、ゼンパー・オパーの最終回はリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)です。音楽の世界には2人の有名なシュトラウスがいますが、1人はワルツ王として有名なヨハン・シュトラウス二世(1825-1899)で、彼の父親や兄弟たちも数多くの名曲を書いています。

ゼンパー・オパー正面
そして、彼らとは親戚でも何でもないのが、今回の登場人物リヒャルト・シュトラウスです。彼の父親フランツ・シュトラウス(1822-1905)は、世界的なホルン奏者で、ミュンヘンの宮廷歌劇場の首席ホルン奏者を40年以上に渡って務めました。モーツァルトやベートーヴェンなどの古典派の音楽を崇拝し、同時代のワーグナーの音楽を毛嫌いしていました。しかし、超一流のプロのホルン奏者だっため、「トリスタンとイゾルデ」他、ワーグナーの数々の初演にホルンのソロを吹きました。
そんなフランツが、なぜ大嫌いなワーグナーの名前リヒャルトを自分の息子に付けたかは分かりませんが(笑)、息子のリヒャルトも父親の影響で若い頃は、伝統的な古典派から前期ロマン派の音楽を愛していました。
キャリアの最初は、世界的な指揮者のハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)に見いだされ、1885年21歳でビューローの後を継いで、マイニンゲン宮廷管弦楽団の音楽監督になりました。その後、ヴァイマール、ミュンヘン、ベルリン等で宮廷歌劇場の指揮者として活躍しましたが、その間も交響詩の作曲家として「ドン・ファン」(1888年)、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」(1895年)、「ツァラトゥストラはかく語りき」(1896年)、「英雄の生涯」(1898年)など現代でも演奏し続けられる傑作を書き続けていました。
オペラ作曲家としては、最初に書いた「グントラム」が1894年にヴァイマールで大失敗したこともあって、しばらくは交響詩に専念していました。ここでようやくゼンパー・オパーの登場ですが、1901年に書いた第2作「火の消えた街」がゼンパー・オパーで初演されたのです。このオペラの内容は、ミュンヘンが舞台でミュンヘンの方言で書かれ、ミュンヘンを少しからかったような1幕オペラです。このオペラは少しだけ成功しましたが、ミュンヘンやベルリンではのちに上演禁止になりました。

ゼンパー・オパー夜景
そして、3作目に書かれたオペラが「サロメ」なのです。1905年にゼンパー・オパーで初演されましたが、オスカー・ワイルド(1854-1900)の有名な戯曲をオペラにしたものですが、オペラの内容もさることながら衝撃的な大成功を収めました。次の作品「エレクトラ」も1909年にゼンパー・オパーで初演され大成功を収めましたが、台本はフーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874-1929)が書き、以降のシュトラウスとホーフマンスタールの蜜月関係は、ホーフマンスタールが死ぬまで続きました。そして、次の第5作目が「ばらの騎士」なのです。「サロメ」「エレクトラ」が新約聖書、ギリシャ悲劇をベースにしたかなり前衛的な作曲技法によって作られた作品であるのに対して、「ばらの騎士」は、舞台がウィーンの貴族の恋愛劇で、音楽的にもモーツァルトのスタイルを踏襲したような親しみやすく美しいもので、専門家たちには時代遅れと酷評されました。しかし、1911年当時の聴衆には絶大に支持され、オペラ史上に残るほどの空前の大成功を収めました。当時、ドレスデンでこのオペラを観るための特別専用列車「ばらの騎士」号がウィーンやベルリンから運行されたほどです。そして、この作品は、今もドイツ・オペラのもっとも代表的な作品として、世界中の歌劇場で上演され続けています。
さらにシュトラウスとゼンパー・オパーの良好な関係は続き、「インテルメッツォ」(1924年)、「エジプトのヘレナ」(1928年)、「アラベラ」(1933年)、「無口な女」(1935年)、「ダフネ」(1938年)が初演されました。
執筆:上月 光