第80回 ヨーロッパ音楽都市巡り ヘンデル巡礼その3 ヘンデルの生涯
先週はヘンデルがロンドンで活躍を始めたところまでご案内しましたが、今週はイギリス人になった後半生を辿ります。そしてオラトリオやカンタータについても。

ヘンデル博物館にある時代順に並んでいる肖像画
ヘンデルは、ロンドンで有名なオペラ作曲家となりましたが、ライヴァルの貴族オペラの団体が出来たり、1728年には「乞食オペラ」が流行したりして、しばらくは、苦難の時代となりました。「乞食オペラ」はジョン・ゲイが台本を書いた代表的なバラッド・オペラですが、オペラというよりも大衆演劇に近く、英語による風刺劇で、ロンドンで大流行しました。
1737年には病に倒れ、音楽王室アカデミーも倒産してしまいますが、ベルギー、オランダとの国境にあるドイツの街アーヘンでの温泉治療によって回復します。そして1738年にオペラ「セルセ」(クセルクセス)を完成させます。クセルクセス(Xerxes)は、紀元前の実在のペルシアの王様で、ギリシア語の名前ですが、イタリア語のセルセ(Serse)の方が有名かも知れません。このオペラは、ヘンデルが初めて書いたコミカルなオペラでしたが、やはりイタリア・オペラの人気は凋落していて、当時もロンドン市民には受け入れられず、没後も忘れ去られてしまいました。
しかし、冒頭のアリア「オンブラ・マイ・フ(ombra mai fu」だけは、ヘンデルのラルゴと呼ばれ、世界中で愛唱されてきました。
https://www.youtube.com/watch?v=ZcMDPL5NR4c
さてここでオラトリオとオペラの違いについてご説明しておきましょう。大雑把に言うと、オラトリオは舞台上で演技はせず、舞台のセットや衣装もありません。それから、オラトリオは宗教的な題材のものが多いです。この2点を抑えておけばよいでしょう。ヘンデルの当時、宗教的な内容によるオペラは教会から禁止されていました。
また、オラトリオの中でもキリストの受難を描いたものは、特に受難曲と呼ばれます。バッハ(1685-1750)のヨハネとマタイが有名ですが、テレマン(1681-1767)も受難曲をたくさん書いています。

アイゼナッハにあるバッハの生家の博物館
さらに同じ声楽曲でカンタータというカテゴリ―がありますが、オラトリオとカンタータの違いも簡単にご説明しましょう。カンタータはオラトリオに比べて短くて簡単なものが多く、またオラトリオの方が劇的なものが多い特徴があります。また、カンタータは主に教会などで儀式の時に演奏されますが、オラトリオはコンサート会場で演奏会として演奏されます。
ヘンデルはオペラと並行してオラトリオも書いていましたが、最初はオペラと同じくイタリア語で書いていました。そして、1718年に書いた英語の仮面劇を元にして、1732年には最初の英語のオラトリオ「エステル」を上演しました。
1738年の「セルセ」の失敗に絶望したヘンデルは、イタリア・オペラの作曲を止めて、英語のオラトリオの作曲家へ転身していきます。そして、1939年に「サウル」「エジプトのイスラエル人」という2つのオラトリオを書きます。
執筆:上月 光