第79回 ヨーロッパ音楽都市巡り ヘンデル巡礼その2 ヘンデルの生涯
ハレの街案内をする前に、ヘンデル(1685-1759)の生涯を名曲とともに簡単に辿ってみましょう。

ハレのシンボルマルクト教会
ヘンデルは幼少のころから音楽に対する天賦の才能を発揮していましたが、彼の父親は、息子が音楽家になることには反対で、法律家にしようと1702年ハレ大学に行かせました。しかし、音楽家になりたかった彼は、ハレ大聖堂のオルガニストを務め、作曲やヴァイオリンなども学んだ。そのころ、マグデブルグ出身でヘンデルよりも4歳年長のゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)がライプツィヒ大学に入るためにハレに立ち寄り、ヘンデルと友人ととなり、ヘンデルがロンドンに行ったあとも、終生手紙のやり取りをすることになります。テレマンは、バッハ(1685-1750)とも生涯大変親しい関係を続けますが、当時はバッハよりもテレマンの方がはるかに有名な音楽家でした。

ヘンデル博物館の肖像画
ヘンデルは、翌年1703年に大都市のハンブルクに出て、19歳の時に最初のオペラ「アルミ―ラ」を書き成功を収めます。その後幾つかのオペラを書いた後、1706年から1710年までは、イタリアの各地を廻り、イタリア様式のオペラをマスターします。1709年ヴェネツィアのカーニヴァルのために書かれた「アグリッピーナ」は、ヘンデルの最初の傑作で、今日もっとも上演される作品となっています。
1710年にハノーファーのカペルマイスター(宮廷楽長)になりますが、すぐにロンドンへ行って、1711年にはイタリア様式によるオペラ「リナルド」を作曲し、大成功を収めます。
このオペラの2幕の有名なアリア「私を泣かせてください(Lascia ch’io pianga)」は、それまでの作品にも何度か使われたヘンデルの美しい旋律によるソプラノのアリアです。
https://www.youtube.com/watch?v=iPx_LydhlkY

ライプツィヒトーマス教会のバッハ像 。
その後いったんハノーファーに帰りますが、翌1712年にハノーファーのカペルマイスターのまま再びロンドンに行き、そのまま住み着いてしまいます
1714年に英国のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世としてロンドンに迎えられることになるのです。しかし、彼はヘンデルを叱責することなく、2人は良好な関係にあったことから、ヘンデルが事前にロンドンに送り込まれたスパイ説という話もあります。江戸幕府と松尾芭蕉や葛飾北斎にも昔からスパイ説がありますが、アーティストを送り込むのは世界常識だったのかも知れません。ジョージ1世のテムズ川での舟遊びのために書かれた曲が、管弦楽曲の傑作「水上の音楽」です。
その中でも1番有名なアラ・ホーンパイプです。日本でも有名ですね。
https://www.youtube.com/watch?v=UnTfED5A1yE
1720年には貴族たちによってオペラの運営会社、王室音楽アカデミーが設立され、ヘンデルは中心人物として活躍します。そして、「ジュリオ・チェーザレ」「タメルラーノ」「ロデリンダ」などを作曲します。すべてイタリア語です。
速筆の天才だったヘンデルは、オペラだけではなく、たくさんの曲を書いていました。1720年に発売された「ハープシコード組曲第1集」の第5番「エアと変奏」は、「調子の良い鍛冶屋」として大変有名な曲となりました。皆さんも旋律をお聞きになったことがあると思います。ハープシコードはイギリスで発達しましたが、イタリアのチェンバロとほとんど同じような楽器です。
https://www.youtube.com/watch?v=_pVXpf8y6JA
1722年ジョージ1世の死の直前にイギリス国籍を主として、ヘンデルはハンドルとなります。そして1723年ジョージ2世の戴冠式のために書いたのが「戴冠式アンセム」で、1曲目の「司祭ザドク」がこの曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=L-CYjLQEapw
この曲は、サッカーファンにはお馴染みのUEFAチャンピオンズリーグのアンセムの原曲となっています。
https://www.youtube.com/watch?v=lln7OQetGEM&t=34s
執筆:上月光