第53回 学術と芸術とボイトの街パドヴァ
第53回 ヨーロッパ音楽都市巡り 「パドヴァ」
学術と芸術とボイトの街パドヴァ
紀元前から栄えた古い歴史を持つ街で、中世にはパドヴァ大学を中心に学問の中心地として、またジョットをはじめとする画家やドナテッロなどの彫刻家が数多く活躍しました。ヴェネト州にありますが、ヴェネツィアから西に約30㎞という距離なので、東京と横浜、大阪と神戸のような関係でしょうか。

市内の中心ウンベルト1世通り
ミラノからヴェネツィアへ行く際も、ローマやフィレンツェからヴェネツィアへ行く際も必ずパドヴァを通りますので、交通の要衝として古くから栄えました。
まずパドヴァへ行った際に必ず訪れたいのが、パドヴァ大学です。ガリレオ=ガリレイ(1564-1642)やダンテ(1265-1321)などが教鞭を取った大学で、地動説のコペルニクス(1473-1543)もここで学びました。ボローニャ大学に次いで2番目に古い13世紀の大学です。ボー宮殿の中に本部があります。また、大学内にある植物園は世界最古のもので世界遺産になっています。

パドヴァ大学

ボー宮殿

ボー宮殿の天井画
そして、スクロヴェーニ礼拝堂は、ジョット(1267-1337)が残した青いフレスコ画があり、
初期ルネッサンスの最高傑作と呼ばれていて必見です。
また、偉大な建築家アンドレア・パッラーディオ(1508-1580)もパドヴァの出身ですが、彼のことは次のヴィチェンツァの回で触れることにしましょう。
音楽家では、アリゴ・ボイト(1842-1918)がパドヴァの生まれです、ボイトは、作曲家でありながら、詩人、哲学者でもあり、優れた台本作家、音楽評論家でもありました。若い頃はワーグナーに傾倒し、29歳年長のヴェルディ(1813-1901)を始めイタリア人作曲家を公然と批判していました。自身のオペラ「メフィストフェレ」は1868年にスカラ座で初演されましたが大失敗に終り、その後はポンキエッリ(1834-1886)の「ラ・ジョコンダ」の台本を書くなど、台本作家として名を上げて行ったのです。リコルディの仲介によって、ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」の改訂版の台本を書いて成功に導き、ヴェルディの信頼を勝ち取りました。そしてヴェルディの最後の2作品「オテロ」と「ファルスタッフ」という傑作はボイトの卓越した台本によって生まれたのです。
執筆:上月光
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