第42回「ベルガモ」 ドニゼッティの街
第42回 ヨーロッパ音楽都市巡り 「ベルガモ」
ドニゼッティの街
ガエターノ・ドニゼッティ(1797-1848)は、ロッシーニ、ベッリーニと並び18世紀前半に活躍したベルカント・オペラの偉大な作曲家です。ドニゼッティが生まれたベルガモは、ミラノから北東に約40㎞の距離にある城塞都市です。

ドニゼッティの生家跡プレート
チッタ・アルタ(上の町)と呼ばれる丘の上の旧市街は城塞に囲まれ、それをチッタ・バッサ(下の町)と呼ばれる新市街が丘の麓の周りを取り囲んで街が形成されています。ミラノやヴェネツィアの支配を受け、時代に翻弄されてきましたが、第2次世界大戦でほとんど被害がなかったので、特にチッタ・アルタは、中世、ルネッサンスの街並みが残っています。

ドニゼッティの生家前の風景
ドニゼッティは、1797年ベルガモの極貧の家庭に生まれましたが、イタリアで活躍したドイツ人作曲家ジモン・マイール(1863-1845)に見いだされ、9歳から慈善音楽院で学びます。さらに18歳の時、マイールの尽力でロッシーニ(1792-1868)と同じボローニャ音楽院に入学します。しかし、その後は軍隊に入隊し、作曲を続け、30作品ものオペラを書きますが、まだロッシーニの模倣の域を出ていません。1829年ロッシーニが最後のオペラ「ギヨーム・テル」を書いた翌1830年、傑作「アンナ・ボレーナ」で大成功を収めます。
その後、「愛の妙薬」(1832年)、「ルクレツィア・ボルジア」(1834年)、「マリア・ストゥアルダ」(1834年)、「ランメルモールのルチア」(1835年)、「連隊の娘」(1839年)、「シャモニーのリンダ」「ドン・パスクワーレ」(1842年)と数多くの傑作を書きました。ちょうどベッリーニ(1801-1835)が出てきた時期とまったく同じで、ベッリーニも「カプレーティとモンテッキ」(1830年)、「夢遊病の女」「ノルマ」(1831年)と立て続けに傑作を作曲したのです。

ドニゼッティ博物館

ドニゼッティ博物館のピアノ
ドニゼッティの特筆すべきは、オペラ・ブッファ「愛の妙薬」「連隊の娘」「ドン・パスクワーレ」等、オペラ・セリア「ルクレツィア・ボルジア」「ランメルモールのルチア」等、両方の分野で活躍したことです。両分野で傑作を残した作曲家としては、モーツァルト、ロッシーニに匹敵すると言えるでしょう。また、多作の作曲家としても知られ、生涯で70もの作品を残しました。

美しいコッレオーニ礼拝堂、後ろはドニゼッティが眠るサンタ・マリア・マッジョーレ教会
執筆:上月光