第34回 ヴェルディ巡礼 その2 「ブッセート」

第34回 ヴェルディ巡礼 その2 「ブッセート」

2020年12月21日(月)9:30 AM

第34回 ヨーロッパ音楽都市巡り
ヴェルディ巡礼 その2
「ブッセート」

 

ジュゼッペ・ヴェルディの第2回は、ブッセートです。
バレッツィによって13歳からは音楽院で、ブッセート市立音楽院院長兼ブッセート大聖堂楽長で、優秀な音楽家だったフェルディナンド・ブロヴェージ(1770-1833)から本格的な音楽教育を受けることができました。

 

ヴェルディ像と市庁舎

 

ヴェルディは、帳簿付けなどバレッツィの本業の手伝いもしながら、長女のマルゲリータに歌とピアノも教え、2人はお互いに惹かれあっていきます。
1832年、ヴェルディはバレッツィの庇護のもと、ミラノの音楽院を受験しますが、落ちてしまいます。入学資格の年齢制限が14歳のところ、すでに18歳になっていたことが理由と言われていますが、対位法やピアノの演奏もまだまだ未熟だったとも伝えられています。皮肉なことにミラノ音楽院は、現在ヴェルディ音楽院と呼ばれています。

 

ヴェルディ博物館となっているバレッツィ邸

 

その後、ヴェルディはミラノで有名なオペラ作曲家のラヴィーニャ(1766-1836)の所へ個人レッスンに通い始め、ミラノで作曲家としての教育を受けることになります。ラヴィーニャからソルフェージュや対位法、チェンバロ奏法などを習います。

 

 しかし、ブッセートのブロヴェージの死去に伴い、音楽監督等の要職をヴェルディに継がせたかったバレッツィは、ヴェルディをミラノからブッセートに呼び戻し、1836年にはマルゲリータと結婚、ブッセートで音楽教師の仕事を始めました。長女と長男も生まれ、新婚生活は順調のように思えましたが、1838年8月長女を1歳4か月で失い、ミラノ移住後、1839年10月長男を1歳2か月で失い、さらには1840年6月、新婚の妻マルゲリータまで失ってしまいます。
 しかしそれなりに評価を受けていたヴェルディは、1839年10月処女作のオペラ「オベルト」をスカラ座で初演、1840年9月第2作のオペラ・ブッファ「1日だけの王様」を初演しますが、失敗に終り、すべてを失ったヴェルディは、音楽家を辞めようと決心します。

 

 そんな中、ヴェルディの才能を信じていたスカラ座支配人のバルトロメオ・メレッリが、台本を無理やり渡して作曲させたのが、第3作「ナブッコ」でした。そして、1842年3月「ナブッコ」の初演は大成功を収め、有名な合唱曲「行けわが想いよ、黄金の翼に乗って」は、今も第2のイタリア国歌と呼ばれ、イタリア人に愛されています。
さらには、ナブッコの初演でアビガイッレを歌ったのが、最晩年までヴェルディを支えることになる2番目の奥さんジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815-1897)なのです。

 

 またブッセートにはヴェルディ劇場という300席の可愛らしい馬蹄形のオペラハウスがあります。1868年にヴェルディの「仮面舞踏会」と「リゴレット」によって開場しましたが、ヴェルディはこの劇場へは1度も訪れず、寄付金と自分の名前をつけることだけを認めたのです。ブッセートの市民たちがストレッポーニのことを良く思わず、ヴェルディはブッセートとは距離を置いていたのです。

 

ヴェルディ劇場

ヴェルディ劇場客席

ヴェルディ劇場天井画

 

 往年の名テノール、カルロ・ベルゴンツィ(1924-2014)は、ブッセート郊外の出身で、晩年はブッセートのヴェルディ劇場のすぐ近くに「2人のフォスカリ」という名前のホテルとレストランを経営していて、今は彼の息子が引き継いでいます。このオペラは、ベルゴンツィがバリトンからテノールに転向してから、初めて歌ったヴェルディのオペラでした。

 

執筆:上月光



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